【しずく-雫-】




目を覚まして、いつもの様にカーテンを引く。
どんよりとした雲。
窓を叩く小さな音は、昨日の夜からのものだ。


しとしとと降る雨に、やや気鬱になりつつも、昨晩水に浸したままにしていた食器の事を思い出し、身を起こす。
勢いで付いて来た布団を、まだ静かに寝息を立てている体にかぶせた。



(…何だか、さむい。)



そう思い、微かに身を震わせる。

一度だけ布団の方を振り返り、そのぬくもりに後ろ髪引かれながら部屋を後にした。


















* * *



食器を洗い終わっても、外は薄暗いままで、今が何時なのかすらよく分からなかった。
最近はずっとこんな天気で、家からなかなか出る機会がなかったが、いい加減食料が底をつき始めている。

雨の中出かけるのはあまり好きでは無いが仕方ない。
と、ひとつため息を付いて諦めると、外出着に袖を通した。




出かける前に寝室を覗く。




あれから1時間は過ぎたと思うのだが、そこだけ時間が止まっているかの様に動きがない。

よく眠っているのだと小さく笑うと、静かに身を引き再び部屋の扉を閉じた。



















* * *



アパートの階段を降りると、雨にけぶる景色がぼんやりと続く。
人通りの少ない道は、何だか延々と続いているようで寂しさを増長させた。

そんな自分が嫌で、気丈に振る舞う努力をしてはみたものの、疲れてすぐにやめてしまった。



(…なんだか、さむいな。)



地面から這い上がって来る様な冷気に、少しずつ体温が奪われていくのが分かる。

昔は、こんな風に感じた事はなかったのに。



少なくとも、竜也といる時には…。




(やめよ。)




最愛の弟の名前が脳裏をよぎって、ようやくいつもの自分が戻ってくる。




(私も、頑張るって決めたんだから。)













買物を済ませた頃、雨足が酷くなる音が聞こえて、仕方なく喫茶店に入る。

紅茶を頼んで、暫く様子を見るものの…一向に収まる気配はない。
30分近く粘ってみたが、仕舞には諦めて店を後にした。



強く打ち付ける様な雨に、傘はあまり意味を成さず、足元からどんどん濡れていく。



何度目かの雨宿りをして、ようやくいつもの通りが見えてくる。
ここまで来たらと傘を閉じると、意を決して走り出した。



弾く様な音を立てながら、アパートの中へ駆け込む小さな影。

暴れる鼓動は外気など気にも止めず、どくどくと体中に血液を巡らせた。
息切れしながらゆっくりと階段を上ると、水のしみ込んだ靴から鈍い感触が走って気持ち悪かった。




(…やっぱり、今日。さむい…。)




部屋の扉の前に立ち、ポケットから出した鍵の温もりに、自分の指先が冷えきっている事に気付く。
掌に息を吹き掛け、鍵をしっかりと握り直す。




それを鍵穴に差そうとした瞬間、突然扉が開いて動きが止まった。










「…おかえり。」



扉の向こうには、ノウェム。

優しい笑みを称えた彼が、一層優しい声で迎えてくれた。













「…どうして?」


「窓の外から、見えたから。」










警戒しているハズなのに。






確認もせずに不用心にドアを開け放つなんて。

そんな意味を込めたたった一言に、彼もまた一言で返してきた。


















「ずぶ濡れ。」






私の姿を見て一言そう呟くと、少し強引に扉の中へと手を引く。

中に入ると随分と暖かくて、それだけで全身の緊張が解けていくようだった。



ドアの鍵を締めて、顔を上げると視界いっぱいに白いものが広がる。

石鹸の香りがする真っ白なタオルに、覆う様にして包まれた。














「じっとしてて。」



淡々と語る彼の口調とは対称的に、髪を拭くその手はひどく優しい。




俯いているから見えないだろうと思い、妙なくすぐったさに笑みがこぼれた。

体内をじわりと巡る熱が、ようやく指先まで到達した頃、ふと我に返った。









(どうして、こんなに暖かいの?)











思いながら、ゆっくりと頭を上げる。



寒いからといって、季節はまだ秋。

部屋中が暖かくなる様な暖房器具なんて、出してもいないし、そもそも無かった。












改めて見渡してみても、やはりそれらしいものはどこにも見つからない。

漠然としてはいるものの、一つの答えが既に脳裏に浮かんでおり、確認の為に口を開く。











「…あなたなの?」




「?…なにが。」





突然問われたノウェムは、動きをゆっくり止めると、僅かに首を傾げた。






「部屋…こんなに暖かいの…。」




















「寒かったでしょ?」






答えでは無いにしろ、肯定と取れる返答に、紀代子はふ…と寂しげな表情になる。





「こんなことしなくても、平気なのに。」





















折角の好意と分かりつつも、素直に喜べない自分が嫌だった。



























「探したんだよ。」




ぽつりと降ってくる言葉に、紀代子は視線を上へと向ける。

ノウェムはそっと前髪に触れると、まだ湿って冷たいそれを手櫛で掻き揚げた。









「目が覚めたら、君が居なくて。」



はっ、として出かけ間際に何も言わなかった事を思い出す。





「…ごめんなさい。」



「ううん、寝ていたから。だよね。」











言いながら視線を部屋の方に巡らせる。




「上着、無かったし。傘も、1つ無かったし。」




いつも上着を掛けている辺りを確認しながら、再び視線を戻す。















「外に行ったんだって、分かったから。あったかくしてた。」




そう言ってにこりと笑うと、頭にのせたままでいたタオルを肩に掛けた。









「…でも…。」









「さむかったでしょう?」











何かを言おうとした紀代子の言葉を遮って、彼は。

たった一言そう告げた。





それは、心の奥まで響く、優しくて暖かい言葉だった。


もはや彼に何を言おうとしていたのかさえ忘れてしまい、姑くの沈黙ののち小さく頷くと泣きそうになっている自分がいた。













「手、貸して。」





両の掌を見せる彼に従い、それぞれに手を乗せる。

すると、優しい光のようなものがそこから溢れて、雪が解けて行く様に指先からぬくもりが拡がった。











「…あったかい…。」



滲む視界に絶え切れず、そっと目を閉じると、目尻からつ…と熱い塊が筋となって流れて行くのを感じた。

その雫に気付いた彼が、何も言わずに口付けを瞼に落とす。



そこからも、あつい熱が生まれて、涙はますます溢れるばかりだった。









「もう…大丈夫。」




溢れる光の中で、彼の手を強く握る。


触れた指の温かさに安心したのか、ノウェムは素直にその手を解放した。













「もう寒くない?」




手から伝わった熱は全身へと流れ、濡れていたハズの服もすっかり乾いていた。

与えられた熱の量と、彼の想いがまるでイコールの様で。





凍えていたはずの心が、満たされている事にようやく気付いた。



















黙ったままこくりと頷くと、彼はゆっくりとした足取りで踵を返し、玄関からダイニングへと向かう。

そのダイニングも素通りすると、寝室の、いつもの定位置に横になった。







静かに、だけど深い呼吸。






無理をしたのだと分かって、寝室のドアの前で紀代子はただ立ち尽くした。




















外は未だに窓を叩く音が続く。




思えば、雨の日にはいつも優しくして貰ってばかりだと。

















ふと、そんな事に気付いた。





















彼は温度に敏感で。





寒さにふるえていると、どんな時でもその手を差し伸べて。


















優しい温もりで包んでくれた。




































それは、見返りなんかを求めた中途半端なものではなくて。





ただひたすらに無償の愛を。














惜しみない愛を。












こんな私に。










降り注ぐ様に。



































外からは、雨の音。






それはノイズの様に頭の中に拡がって、何も考えられなくなっていった。




















next...




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